郷土誌 【天草 本邑のあゆみ】 PDF    鶴田 功 編集

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    本町の遺跡・遺物・石碑


縄文時代の遺跡と遺物(本渡市史より転載)
 本渡市史編纂委員の山崎純男氏の調査によると、本町の広瀬川流域には

4カ所の遺跡が確認されている。


 道面遺跡(本町下河内道面)
 現状は畑である。遺物の散布範囲は約1000平方メートル、採取遺物には、

磨製石斧・石鏃・剥片 ・チップなどがあり、量は多い。


枦の原遺跡(本町枦の原)
 遺物の散布範囲は広くない。
採集遺物には石鏃・剥片 ・チップなどがある。
すべて黒曜石である。
 図は、枦原遺跡より採取したものである。
    8は基部を欠く。三角形
    9.10 は浅いえぐりがある。


新休遺跡(本町新休上)
  遺物の散布範囲はあまり広くない。採集遺物には、石鏃・剥片・チップなどがあるが、

量的には多くない。


福岡遺跡(本町福岡)
  道路工事中に一本の石斧が採取されている。共伴遺物などはわかっていない。

石斧は完成品で硬質砂岩を使用し、全体に良く研磨されている。
長さ15.8センチ、幅5.7センチ、厚さ3.4センチで、刀部は、両面から磨かれ、両刃をなす。


  本町の文化財
 町内にある有形、無形の文化財のうち、本渡市指定文化財3件を紹介する。
案内板によると次のように記されている。(ただし最小限の修正を加えた)


東向寺歴代住職の墓

    指定年月日 昭和50年6月13日 管理者 岡部禅龍(東向寺住職)
 松栄山東向寺は、天草・島原の乱後、初代代官鈴木重成が、兄正三和尚の意見に基づき、民心安定のため、建てられた天草四ヶ本寺筆頭で、寺領50石が与えられ寺の豪壮と寺領地の広さを誇った。幕府の威光を示すため、本堂内陣には徳川家康・秀忠の木造や、歴代将軍の位牌を祀り、寺格を拡大していった。
 歴代の和尚を「御前様」と呼び、天領時代、住職には特権が付与されていた。これらの歴代住職の石塔群は境内の西側に、開山の中華珪法和尚を中央にして、その左隣が2世、右隣が3世の順序で28代まで並立し、苔むす石碑が時代の変遷を物語っている。



鈴木明神伝碑  指定年月日 昭和46年4月26日 管理者 田口孝雄(鈴木神社宮司)
 天草・島原の乱後、天草は天領となり、初代代官として着任した鈴木重成公は荒廃した天草の復興に全力を尽くした。
 特に領民の苦しみを除くため石高(4万2千石)の是正を幕府に具申、遂に上書して自刀したと伝えられている。
 死後6年、二代代官鈴木重辰の代にな幕府もその赤誠に打たれて、石高2万1千石に石高半減を見るに至った。この徳に報いるため島民は、天草各地に鈴木塚を建立した。この宗社が本町の鈴木神社である。
 この鈴木明神伝碑は、文化8年(1811)2月建立。篆額は、東向寺15世・天中和尚の筆。撰文は越後の魚沼國器。書は当時本戸馬場に在った岡田芝山の手になり、鈴木重成・重辰・正三の3人の事蹟を記してある。

市ノ瀬橋と石碑  指定年月日 昭和59年1月 管理者 本渡市

 市道本泉~本町線の広瀬川に架かる石橋で、長さ22.2メートル、幅4.55メートルの太鼓型橋である。通称「市ノ瀬橋」と呼ばれている。昭和57年、下流の一の瀬橋が通するまでこの橋が県道本渡~二江線であった。この石橋には橋名も記念碑もなく定かな記録はないが「明治19年度46号線字市ノ瀬橋架換目論見変更ノ義ニ付上申」(佐藤家古文書)や古老の話によると、明治15年(1882)4月、最初の橋が架けられたが、同19年7月、洪水により流失。当初、県は木橋に架け替える計画であったが橋の規模が大きく用材の調達が困難であったため前記文献のとおり、目論見変更して
石橋架け替えの陳情が行われ、同24年頃完成した。