地名の由来   (PDF)

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 地名の由来                        〔天草本邑のあゆみ〕  鶴田功著より抄録


地名はその土地の歴史や地理、特産物、生物、建造物、人々の職業などに由来している。


 熊本
①南北朝時代は「隈本」(崖の下の湿地の意)といった。
②1607年(慶長12)加藤清正の築城の際、「熊本」に改めた。


 天草
①海士の民草(あまのたみくさ)説=海洋民族  ②甘草(あまくさ)説   ③天日(あまくさ)説=宇宙と太陽の島
④大和時代(景行18年)景行天皇がご巡幸の折、台風を避け御所浦・姫浦・樋島へ寄港。

⑤大和時代(成務5年)天草国造に建島松命 任命される 「先代旧事本記」

⑥奈良時代714年(和銅5)古事記に両児島(ふたごのしま).天両屋島(あまのふたやしま)の名がある。

⑦744年(天平16)続日本記(しょくにほんき)に肥後国天草の名がある。
⑧885年(仁和元)和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)に肥後国安万久佐(あまくさ)郡に

波太・天草・志岐・恵家・高屋の五郷ありと記してある。


 本村
①大和時代(景行18)景行天皇がご巡幸の折、矢筈岳山頂から山裾の集落を眺めると、

   炎(ほむら)が見えたことから「炎見村」といった。
②本は中心の意味 天草の中心 (中心地に筆頭寺である東向寺を建立した)
③1605年(慶長10)肥後国絵図に河内村(本河内)
④後に河内村(本村・本泉・広瀬)を本泉・広瀬と本河内(本村)・下河内村に分離した。
⑤1641年(寛永18)鈴木重成が天草を10組87ヶ村とし、下河内村・新休村・
 本村とした。
⑥1889年(明治22)町村制施行に伴い下河内村・新休村・本村を合併し本村となる。
⑦1954年(昭和29)市制施行により本町となる。


 下河内
河内とは、川に沿った平地を意味し、上河内・下河内・大河内・小河内・半河内がある。


 枦の原
①蝋燭や鬢付け油(整髪料)の原料である黄枦(こうろ・はぜ)を多く産出した。
②1821年(文政4)下河内村の伊三郎に諸色(いしょしき雑貨小売商(蝋燭(ろうそく)鬢付(びんつけ)け油の製造販売)
 を許可、幕府は運上金(税金)を徴収。


 下向
高いところから低いところへ向かう。(標高が低い所)


 道面
富岡往還(富岡代官所に通じる道)に面しているところ。

 街道端(きゃーどばた) 富岡往還(街道)の端にある土地。


 掛道
①広瀬川で道が分断され、掛け離れた集落。
②1646年(正保3)正保郷帳に下河内村の枝郷掛道と記されている。


 新休
①東向寺が富岡往還(おうかん)に至る要人の休憩所であった。
②1641年(寛永18)鈴木重成が天草を10組86ヶ村とし、下河内村・新休村・
  本村とした。
③東向寺には徳川家歴代の位牌が奉安されているため、何人も下馬して拝礼した。


 横久保
神聖な社寺仏閣の横にあり、水流に恵まれた土地(広瀬川)。


 門前

東向寺山門の前の集落。 


 寺領
文字通り、東向寺の領地であった。


  庄司原(庄司村)

荘園管理者が所有する平地。


 平
平らな所(平地)


  前原
鎮守(ちんじゅ)の社(神社)前の平地。


 二叉
広瀬川の源流である平床川と洗切川が二叉の分岐点になっている所。


 福岡
神仏の加護を賜るという、小高い所にある土地(丘)。


 平床
一段高いところを平らにした土地。(寝床)


 鉾(とがり)(鉾山)
鉾先(ほこさき)のようにとがった形の山がある。


 鉄山
鉄鉱石ではないが、製鉄の原料となる石炭が産出した。


 鶴
「川留(つる)・川流(つる)」と書いて「つる」と読む。川留は、水流が曲がりくねった山間部の小平野のこと。
②出水平野(鹿児島県)に渡来していた鶴が2~3月頃、シベリアへの北帰行経路に当たる地。

小宮地棒の鶴、本村鶴、坂瀬川鶴。


 宇土
細長い谷間にある家土地を意味する。(宇は家・建物を数える語)


 梶山
梶棒(荷車や舟の梶)に使う梶の木(桑科の落葉高木)を産出した。