天草の石炭
天草炭田は、熊本県天草郡諸島に広く分布する古第三紀層による地域で、主な稼行地帯は山岳多く平地に恵まれない下島一帯であり、通産省調査によると理論可採炭量(埋蔵量)は7,400万トンといわれていた。
天草で炭田が発見されたのは、北部が享保年間(1716~1734)、南部は天保年間(1830~1843)といわれ、明治初頭(1868))から採掘されている。
明治30年(1897)、大日本練炭株式会社は、桝之水鉱・牛の迫鉱から富岡港間(3.5Km)に石炭輸送用の鉄道を敷設し、明治33年(1900)~45年(1912)には月間4000tを産出した。
牛深の烏帽子炭坑では良質の無煙炭(綺羅炭)を産出し、日本海軍に大量に納入していたが浸水に悩まされ数年で放棄した。
天草炭田は、地層の褶曲が顕著であり、採鉱は困難を極めた。また、中小規模で設備投資や安全対策も不十分で労働環境も劣悪を極めたが、当時国内唯一といわれる良質の無煙炭(綺羅炭・瓦ヶ炭)を産出することから地元資本企業を中心に採炭を続けた。
比較的大規模な炭鉱魚貫炭鉱は、燃料炭として安定した生産を行っていたが、戦後エネルギー革命がおこり、日本政府は安い石炭を外国から輸入する政策に変わり昭和50年(1975)閉山しすべてが幕を閉じた。
しかし、天草一帯は大手資本の参入がなく深い炭層の開発が行われていないため、未だ500万トン以上の石炭が埋蔵されていると推測されている。
昭和20~40年頃採炭していた炭鉱は、志岐、苓州、竹之迫、小松、和久登、鞍付、涼松、坂瀬川、大岳、平床、蔭林、松の塚、福岡、今富、旭、魚貫、権現山、砂月、堀の迫、南天、中之浦である。