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はじめに
方言は、地域特有の文化で、人々の暮らしの中で培われ時代の流れと共に新しいことばと合流しながら多様に変化している。
天草方言の中には、死語化して現在使われなくなったことばもあるが、興味深いことに、外来語をはじめ古語や文語調のことばが多く残存している。
天草についての記録は、【古事記】に〈両子の島(ふたごのしま)または〈天両(あめのふたや)島〉とあるが、天草は海士(あま)の民草(たみくさ)を意味し、海洋民族の島ともいえる。
【先代旧事本記】には、成務5年(4世紀前半)天草の国造(くにのみやっこ)として建島松命(たてしままつのみこと) が任ぜられていることが記されている。
松田唯雄著【天草近代年譜(ねんぷ)】によると、天草には、奈良・平安時代(7・8世紀頃)外国船漂流の記録が何度もでてくる。一方、天草びともまた、大海を隔てた南方の国々を目指して、魚介類や特産物を積み込んだ船で勇敢に荒波を乗り切り大海原へと漕ぎ出したのだ。潮任せ風任せで命知らずの船乗りたちは、帰り船には異国文化も満載していたに違いない。
1566年、天草の豪族志岐麟泉(りんせん)がキリスト教宣教師トルレスを招き、更に二年後には天草鎮種が修道士アルメイダを招いている。キリスト教の布教とともに、異国文化や様々な物資(舶来品)の流入があったことが推測される。
特筆すべきことは、1591年から1597年頃、日本最初の活版印刷によるローマ字本が天草学林で刊行されている点である。代表的なものに【天草伊曾保(イソップ)物語】【天草本平家物語】(イギリス大英博物館所蔵)【ドチリナ・キリシタン】(東洋文庫蔵・バルベリニ文庫蔵)等47種が印刷され12種が現存する。この、天草本や〈日葡辞書〉にでてくることばには、正に安土桃山時代の標準語である〈京ことば〉がそのまま〈天草方言〉として残っている。
時は移って1637年、天草四郎を総大将に決起した〔天草島原の乱〕では、多数の島民が犠牲になり天草の人口は激減した。乱後、幕府はただちに移民政策(1642年)を敢行し九州諸班に対して移民を命じている。
また、天草は流人(るにん)の島(刑場)といわれ、「遠島申しつける」と流罪の宣告を受けたのは比較的身分の高い公家貴族など政争の敗者や僧侶など知識階級で、1692年には高野山の僧徒6百余人が流罪に処され、140人は天草に配流された。高僧流人墓が大浦・志岐・高浜・河浦などに現存する。
民謡研究家の竹内勉氏は、日本各地に伝わるハイヤ節の源流は、〈牛深ハイヤ節〉だというのです。南風の風に乗った帆船が、日本各地の港々でハイヤのリズムと共に日本各地の方言を伝えたのだろう。興味深い話である。
こうした歴史的経緯や多くの人的交流など諸々の要因から見ても、天草方言の語彙(ごい)数を豊富にしたものと思われる。
私は、この貴重な郷土文化の収録のため〈天草方言集〉を発刊しました。上梓にあたり多くの方々にご協力頂きました。ここに深く感謝の意を表したいと思います。 編者 鶴 田 功 しるす
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