平安中期(11世紀) 紫式部の長編小説
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天草方言で読む「源氏物語」 PDF
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いづれの御時にか、女御(にょうご)、更衣(こうい)あまたさぶらひ給ひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬがすぐれてときめき給ふ有けり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方々、めざましき物におとしめそねみ給ふ。
同じ程、それよりげらふの更衣(こうい)たちはまして安からず。朝夕の宮仕へにつけても人の心をのみ動かし、うらみを負ふ積もりにやありけむ、いとあづしくなりゆき物心ぼそげに里がちなるを、いよいよあかずあはれなる物に思ほして、人の譏(そしり)をもえ憚(はばか)らせ給はず、世のためしにも成りぬべき御もてなしなり。
上達部(かんだちめ)・上人(うえびと)なども、 あいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土(もろこし)にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、 楊貴妃の例も、引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の由あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ花やかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子(おのこみこ)さへ生まれ給ひぬ。 いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌(おかたち)なり。
一の皇子(みこ)は右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲けの君と、世にもてかしづき聞こゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、 おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふこと限りなし。 初めよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、 さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、先づ参う上らせ給ひ、ある時には大殿籠もり過ぐして、やがて侍らはせ給ひなど、あながちに御前去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれ給ひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。
人より先に参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう、心苦しう思ひ聞えさせ給ひける。 かしこき御蔭をば頼み聞えながら、落としめ 疵を求め給ふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。御局は桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせ給ひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くし給ふも、げにことわりと見えたり。参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなき事もあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、 はしたなめわづらはせ給ふ時も多かり。 事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとより侍ひ給ふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨み、ましてやらむ方なし。
〈意訳〉
いつ頃ン天皇の御世じゃったか、帝にお仕えしとんなさる大勢の女御や更衣がいる中に、そがん高貴な身分でもなか一人の更衣(桐壺)が、帝の寵愛バ一身に受けておんなした。
入内当初から、我こそは正妻になろうともて、思い上がっとらす女御方は、そがん更衣が目障りでしよんなからすもんだけん、妬みや嫉妬がひどかった。
同格の者やそれより身分の低っか更衣たちは、まして気の休まらん。
朝夕の側仕えにしたっちゃ、他の女房たちから心バ掻き乱さるる一方で、そがんした恨みが積もり積もったせいじゃろ、病が嵩じるばかりで、いんま死んとじゃなかかちゅう不安から、心も弱り、里帰りばっかりなさるごてなった。
帝はますますみぞげに思うて、周囲が誹(そし)りよっともお構いなしで、世の語り草にもなりかねんとに、帝は熱烈な遇(もてな)しようじゃんなす。
上達部とか殿上人なんかも、思わず目バそむきゅうごてなるごつ、何ともまあ、目映かごたるご寵愛ぶりじゃんなした。
「唐土(もろこし)でも、こぎゃんしたことがもとで、世が乱れ、災厄バ招いた」と、世間でも、道ならんことだけに扱いに窮して悩みの種になり、楊貴妃の名まで具体的に持ち出されかねん事態に進む中、更衣(桐壺)は、いたたまれん思いバすることが多うなった。
ばって、あまりにも帝が深か愛情バ掛けて下さるもんだけん、それば頼みに、宮仕えバ続くるこてなさった。
(桐壺の)父親の大納言ナもう亡くなっておいでばって、母は家柄の古か、なかなか教養豊かなお方じゃんなさる。
二親そろうとって評判のゆうして、勢い盛な女御方にもさほど見劣りせんし、宮中の諸行事まで賄うておいでばって、これちゅうて力のある後ろ盾もなかったけん、いざちゅう時にゃ、やっぱり頼みのあてがなかけん、心細か様子じゃんなした。
さきの世でも、帝とのご縁が深かからしたっじゃろうか、身に余るご寵愛バ受くるばかりか、世にも稀な気品のそなわった玉のごたる御子がお生まれになった。
里でお生まれの御子バ、帝はまだかまだかと心せかれておられ、宮中さん急せぇで連れて参れちゅて、呼び寄せてご覧になったところが、またとなかお顔立ちの整うた赤子じゃんなす。
第一皇子は、右大臣家の娘の女御(弘徽殿)がお産みの御子じゃんなす。後ろ盾の力も強うして、間違いなし次期皇太子だけん、世間でにゃ大切に扱い申し上げちゃおる。
ばって、この宮の輝くごたる美しさにゃ及ぶはずもなかけん、第一皇子にゃそれ相応に尊んでにゃおらすばって、こん若君だけは秘蔵子として慈しみ大切にしなさる、そがん様子がありありと見てとらるる。
もとより、この更衣は、近侍がするごたる側勤めのごたる雑事バ、さっさんばんごたる身分じゃなかった。世間からもたいそう尊ばれ、女御並みに貴人の風格バそなえておんなさった。
むやみと帝が側におらせてお放しにならんもんだけん、立派な管絃の会の折りとか、どがん催しであれ格式のある行事の折りにゃ、真っ先にこの方がお上りになるごてはかられ、時にゃ共寝のまま起きそびれて、そんまま側仕えバさせなはったり、強引にお手元から離さでにゃもてなしておいでになるうちに、おのずと品の下るお方と見られもした。
この御子がお生れになってからは、正妻じゃらすかのごて格別の計らいバなされたため、皇太子にも、ことによれば、こん御子がお立ちになるかもしれんちゅて、第一皇子の母の女御は気バもんどらす。
真っ先に入内なさって、第一夫人として尊んでおんなさるお心持ちに変わりはなかばって、皇子ばっかっりじゃのうして、皇女までも授かっておいでだけん、このお方のお諌めばかりゃ、いくら更衣への愛情が深かちゅうたっちゃ、やはり聞き流しゃでけんし、わずらわしゅうして心苦しゅう思うて申し上げなさった。
もっちゃなかご加護バ頂きながらも、さげすんだり、あら捜しバなさる方が多うして、自身な病身で先々不安な身そらじゃらすて、ご寵愛ゆえにかえって運命に対して深か気労バしなさる。
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