天草の沿革 (PDF)
▲ クリックして下さい。
天草の沿革
4世紀 成務 5年 天草国造に建島松命(まつのみこと) 任命される 「先代旧事本記(せんだいくじほんき)」
712 和銅 5年 古事記に両児(ふたご)の島 天両屋(あまのふたや)島の名がある
743 天平15年 筑紫館跡から木簡「肥後国天草志記里」出土
744 天平16年 続日本記に肥後国天草の名がある
885 仁和 元 和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には「肥後国安万久佐郡に波太.天草.志岐.
恵家.高屋の五郷あり」と記してある
941 天慶 4 弘法大師の法孫妙覚法印が本砥郷山口に蘇迷嶽観音院(真言宗)を開基
1260 文應 元 大蔵太夫(播磨局)亀川に来迎寺を建立
1313 正和 2 一町田に信福寺(天台宗)開山
1340 興国 元 蘇迷嶽観音院(真言宗)に無外禅師が入山
1555 弘治 元 天草5人衆時代
1587 天正15 豊臣秀吉の九州平定後、肥後南半分を小西行長が支配
1589 天正17 蘇迷嶽観音院(真言宗)が小西行長の兵火を浴び全焼
1600 慶長 5 天草は加藤清正の領となる
1603 慶長 8 天草は、唐津城主 寺澤志摩守(しまのかみ)広高の領地となる
1612 慶長17 一町田の信福寺(浄土宗)開山(覚蓮社正譽上人)
1637 寛永14 天草島原の乱
1639 寛永16 備中国(岡山県)山崎家治の領地となる
1641 寛永18 幕府天草を天領(10年間)とし鈴木重成を初代代官に任命
1654 承応 3 二代目代官鈴木重辰(しげとき)就任
1664 寛文 4 私領復活統治 三河国(愛知県)の戸田忠昌支配
1671 寛文11 第二次天領(43年間)となり小川藤左衛門正辰など8代支配
1672 延寶 元 染嶽観音院の草庵として〔慈眼庵〕を建立
1685 貞享 2 服部六左衛門三正支配
1703 元祿16 染嶽観音院を代官今井九右衛門により黄檗宗として再建
1714 正徳 4 天領委任統治 日田役所支配 室七左衛門重福代官など21代
1720 享保 6 島原領所支配 松平忠雄兼帯
1725 享保10 染嶽観音院(曹洞禅宗)再興
1749 寛延 2 島原領所支配 松平忠祇兼帯
1750 寛延 3 島原預所支配 戸田忠盈兼帯
1769 明和 6 日田西国郡代支配 揖斐(いび)政復兼任
1770 明和 7 染嶽観音院を再興 東向寺門末とする(東向寺10世泰梁慧貞)
1774 安永 3 天草、最初の大規模な百姓一揆
1777 安永 6 日田西国郡代支配 揖斐靱負(いびゆきえ)兼任
1783 天明 3 島原預所支配 松平忠恕(ただひろ)兼帯
1789 寛政 元 瑞岡珍牛(48)長州より帰山し染嶽観音院へ入る
1793 寛政 5 島原預所支配 松平忠馮(ただより)兼帯
1832 天保 3 日田郡代支配 監谷正義兼任
10 長崎代官支配 喬木忠篤兼任
1847 弘化 4 天草は日田大官 竹尾清右衛門の領有となる
1848 嘉永 元 池田岩之丞兼任
1862 文久 2 長崎代官高木作右衛門(健太郎)兼任 (島原長崎78年間)
1863 文久 3 日田郡代支配 屋代増之助兼任
1867 慶応 3 窪田治部右衛門が郡代支配
1868 慶応 4 廃藩置県により熊本県天草郡となる
4 天草郡は富岡県となる
6 天草県となる
1868 明治 元 天草は長崎府に併合
1869 明治 2 長崎県の管轄
1871 明治 4 11 府県統合により天草は八代県に所属
1873 明治 6 肥後国全体を白川県とし、天草は白川県に編入
1876 明治 9 白川県を熊本県と改める
乱から明治キリスト教復活まで
乱後、天草島は幕府の直轄地となったが、江戸時代を通じて専任の代官がいたのは通算して僅か66年である。
島原藩預かりとなり、島原藩の一部として行政された期間が78年、長崎代官の兼任となった期間50年、実に128年間は長崎・島原に所属した。
私 領
1638年(寛永15) 唐津城支城富岡城々主として備中国成羽から山崎甲斐守家治就封。(3年間)
1640年(寛永17)まで天 領
1641年(寛永18) 天草は天領となり、初代々官鈴木重成就任。(13年間)
1653年(承応2)まで天 領
1654年(承応3) 二代目代官鈴木重辰(しげとき)就任。(10年間)
1663年(寛文3)まで私領
1664年(寛文4) 天草は再び私領となり、三河国田原城から戸田伊賀守忠昌就封。 (7年間)
1670年(寛文10)まで天領(専任)
1671年(寛文11) 第2次天領時代(専任代官を置く)。小川藤左衛門正辰など8代に亘る。
43年間1713年(正徳3) まで
天領(委任)
1714年(正徳4) 第3次天領時代。日田代官室七左衛門重福など21代に亘る委任統治となる。
幕末の日本は、開国攘夷か、佐幕か尊皇かで揺れる。こうした時の1864年3月、天草の代官兼任になったのが西国郡代(日田)窪田治部右衛門。そして、1868年明治を向かえる。154年間1867年(慶応3)まで (この年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還)計 230年間
こうした歴史的理由から明治元年維新政府になってから、長崎府に併合され長崎県天草郡であった。天草が、八代県の所属になったのは明治4年11月、6年白川県の所管となり熊本県天草郡となったのは明治9年である。
天草人の海外発展の萌芽は江戸時代末期から見られる。長崎を中心に肥後、筑前ヘ人夫・人足かせぎに多くの人が出かけている。天草人の出稼ぎの中で、天草女性の海外進出が「娘子軍」と呼ばれ、またからゆきさん(唐の國)と取り沙汰された。確かに、明治20年前後から海外に出かけ、その後、第2次世界大戦勃発まで続いた。地域もアジア全域、南北アメリカ、アフリカ大陸までその足跡をしるしている。
幕末にフランスのパリ外国宣教師会の宣教師が、日本に入国したのは、1859年(安政6)で、初めはフランス外交官の通訳としてであった。
間もなく宣教師たちは、函館と横浜で布教を開始、明治初年においても長崎はキリスト教の拠点であった。天草島の潜伏キリシタンの所在を探知していた長崎港外の「神の島」から、信者の漁師が旧キリシタンの親族を探す目的で大江村にきた。大江村の野中地区の道田徳松夫婦、弟の嘉吉が信者になってキリスト教が復活した。
その後、山一つ越えた崎津にも入信者が出て、この二つの地区にキリスト教が根をおろした。明治中期になっても両地区あわせて千人近い転宗者を出した。
天草島鏡 天草寺社領之覚(上田宜珍)
天草近代年譜(松田唯雄)